広島こども食堂今昔物語集

1 広島県内初のこども食堂は? この問いに答えられる人はおそらく誰もいないのではないでしょうか。 というのも、こども食堂にはこれといった明確な定義が無いからです。 加えて黎明期のこども食堂と現在のこども食堂では、社会的なイメージが変化しており、当時のイメージでとらえるか、現在のイメージでとらえるかでは答えが違ってくると考えられます。 正解は無いという前提で、当センターの知る限りで最も古いのは、広島市安佐北区の県営住宅で活動していた落合東地区社会福祉協議会の「朝ごはん会」です。 (青少年への食事提供としては、広島には全国的に有名な「基町のばっちゃん」がおられますが、御存知のとおり保護司としての活動の延長にある活動のため、ここでは除外します。ばっちゃんの偉大さに変わりはありません。) 開始が2012年3月ですので、なんと近藤博子さんの「きまぐれ八百屋だんだん」よりも前に、地域の子どもたちに食事を提供する活動を始めていたことになります。 (実は、全国で見れば、こども食堂という言葉を使っていなかっただけで、名もなきような類似の活動はたくさんあったものと思われます。もちろん、近藤さんの偉大さにも変わりはありません。) 当センターは夢財団時代に一度、この活動を始められた立石さんとお会いしたことがあります。 様々なエピソードを聴かせていただいた後におっしゃった言葉は、今でも強く印象に残っています。 「わしは目立つのは好きじゃない。それに、困っている子のためにやっているのを知られたらその子たちが来にくくなるけえ、そっとしておいてもらいたい。」 この言葉は、その後の当センターの理念に少なくない影響を与えてくれたものとして、立石さんの温厚なお人柄とともに心に刻まれています。

2 福山での広がり 備後地方の中心都市である福山市内におけるこども食堂のルーツを探るっていくと、2013年に市が社協に委託して福山すこ やかセンターで開始した「あつまローズ」にたどり着きます。 平成の大合併により周辺4町を吸収する形で市域が広がった福山市では、合併前の5市町それぞれにあつまローズのような場所を作ることを目指し、社会福祉法人やNPO法人と行政が連携する形で広がっていったのですが、初期は特に行政主導の取組であったため、現在スタンダードとなっている地域共生ではなく、支援の色が濃いものでした。 そのような背景からスタートした福山ではありますが、行政主導ではなく民間団体が自発的に運営するものの先駆けとなったのが三吉コミュニティセンターで2016年7月に始まった「そらまめこども食堂」です。 運営者が20代の若い女性であったのも当時としては珍しく、公民館を借りて月2回の開催、ご近所の方々が調理スタッフとなり、暁の星高校の生徒さんがボランティアに来て参加した子どもたちと遊ぶ光景は今でもお手本となるような活動であり、過去には夢財団での普及啓発にも協力していただきました。 現在は駅家町に移り当時とは形を変えてはおられますが、先駆者としての功績は色あせるものではなく、ここに記録して称えたいと思います。

3 子どものほっとスペース 2016年に当センター(当時は夢財団在籍)は、まずはこども食堂の実態を知ろうと現場訪問を開始し、当時は県全体でも10数か所でしたので、ほぼすべてを訪れて運営者に直接話をお聞きすることができました。 子どものほっとスペース(以下「ほっとスペース」)もその中の一つですが、当センターにとっては単なる先駆者というだけでなく、お手本として最も大きな影響を受けた特別な場所であるため、ここに残しておこうと思います。 どれくらいの影響力かというと、当センターがほっとスペースを見本として西区横川に楽だ食堂を作り、その実践を基に普及啓発を行ってきた経緯を考えれば、 ここの活動をベースに広島県内でこども食堂を広げていった。 と言っても過言ではないぐらいのものです。 ほっとスペースは、2016年7月、「夏休みが始まる前に」との思いで三原市円一町にある飲食店の空き店舗で活動を開始しました。 当時見学に行った他の食堂との最も大きな違いは、参加者とスタッフの距離が近いこと。フラットな関係でお互いの名前を呼び合っており、支援する側とされる側といった境目を全く感じませんでした。 その温かさは数多くのリピーターを生み、わざわざ岡山からやってくる世帯や、広島市内から毎月2回、「ここがいい」と言ってボランティアに通う学生もいたほどです。 (その学生さんは、ほっとスペースの各スタッフが果たしている役割について心理学を使って分析した優れた卒業論文を残してくれました。) 県内視察が一巡した後、「イクちゃんこども食堂ネットワーク」を立ち上げて夢財団としての支援事業を開始してから徐々に開設相談を受けるようになったのですが、備後地方からの相談があれば、まずはほっとスペースの見学をお勧めしていた記憶があります。 そんなほっとスペースですが、諸事情により活動の継続が難しくなり、残念ながら現在は開催されておりません。 しかし、その理念は広島のこども食堂ネットワークにおいてこれからもずっと引き継がれていくでしょう。

4 三庄のおうち 福山と三原を取り上げながら尾道を素通り・・・できるわけがありません。 3市には、市域のネットワークを社協さんが運営しているという共通項があり、当センターは主にフードバンク事業でそれぞれと連携を取らせてもらっております。 尾道の最大の特徴は、社協の担当職員さんがプライベートではこども食堂の運営側で活躍されている点です。ネットワークの中心に運営者に寄り添える方がいることもあって、最近の尾道市内での広がりは特筆すべきものがあります。 では、同市内で最初に活動を始めたのは? 黎明期に社協で関わっていた方なら、ひょっとして御存知かもしれません。 それは、2015年3月に尾道市立三庄小学校(旧因島市)が周辺2校と統合されたことをきっかけに誕生しました。(三庄は「みつのしょう」と読みます。) 統廃合によりできた因島南小学校は、因島南部の広範囲が校区となり、ほとんどの児童はバス通学に。 夕方のバスの時間に遅れると家に帰ることができないため、放課後はすぐに下校せざるを得ず、家に帰っても近所に子どもがいないので、友達と遊ぶという小学生にとって当たり前のことが難しくなってしまいました。 そんな状況に心を痛めた保護者有志が2016年7月、まずは夏休みに宿題会のような形で学校のすぐそばにある三庄ふれあいセンターに子どもたちを集め、一緒に勉強し遊ぶ機会を作り簡単な食事を提供し始めたのが「三庄のおうち」です。 学校が始まってからも、月に1回は授業が半日で終わる木曜日に、まずは宿題、それから簡単なおやつを作って食べ、そしてバスの時間まで思い切り遊ぶ。 当センターは、こちらも夢財団時代にしまなみ海道を通って見学に伺いました。因島の最南端ですから、広島市内からはとにかく遠かった記憶があります。 それでも、学年の異なる子どもたちがなんやかんや楽しそうに過ごしていて、なんだか自分の子ども時代を思い出してほっとしたという感覚は今でも残っていて、印象深い見学先の一つでした。 保護者の方たちは大変だったと思います。 ほとんどのこども食堂は、シニア世代や学生を中とするボランティアの手で運営されているので、逆に現役の子育て世代にとってはのんびりと過ごせる場所なのですから。 運営メンバーの我が子が卒業すれば、その役割は誰が引き継ぐのか。 PTAも子ども会も消滅するような時代、継続は難しいかもしれないというのは当時も理解しており、いつかの時点で活動は途切れたものと思われます。 そんなこんなで「放課後こどものじかん」をフェイスブックで見つけた時は、三庄のおうちが名前を変えて復活?と驚いたものです。 しかし、よく調べると、三庄ふれあいセンターで月に1回木曜日に開催されていることは同じなのですが、後継団体ではなく全く別物でした。 個人の方が新規に始められたもので、毎回子どもたちと一緒に調理する料理教室と勉強の時間もあって、とても充実した活動のようです。 運営者の方にお会いしたことは無いのですけれども、投稿を見るたびに三庄のおうちを思い出し、勝手に応援のつもりで「いいね」をするのでした。

5 平成30年豪雨とこども食堂の本質 2018年の夏、西日本が記録的な豪雨に見舞われる平成30年豪雨災害が発生しました。 当時、県内のこども食堂は50か所を数えるほどまで広がっており、こども食堂の会場自体に直接的な被害はないものの、被災現場の近くに位置する食堂は何か所か存在していました。 夢財団として活動する中でつながっていた「矢野の家」はそのうちの一つで、こちらも残念ながら現在は休止中ですけれど、こども食堂の本質を体現した活動として、豪雨災害時のエピソードとともに紹介したいと思います。 矢野の家は、運営者の方が空き家になった義実家を改修して地域サロンをオープンし、サロン活動の一環でこども食堂を始められたという経緯があります。 縁側や座敷がある古民家で、畑で採れた野菜を使い、乳幼児から高齢者までが集まって会食する光景は、まさに人と人が密接につながっていた「昭和」時代を髣髴とさせるもの。 県外から転入してきた子育て中のママや、近所の大学生たちを巻き込みながら活動が広がっていく様子は、常設の拠点があることもあいまって、一つの理想形とも言えるほどの充実ぶりで、当センターも様々なイベントに招待していただき楽しい時間を過ごさせてもらいました。 学校や地域で色々とトラブルを起こしていた男の子が、矢野の家に通い続けるうちに、食堂の日にはエプロンをして手伝うようなるまでの成長過程は、ここがいかに温かい場所であったかを示しています。 どうして矢野の家を作ったのか、これほどの活動ができる動機は何なのかを運営者の方に尋ねたことがありますが、その答えは 「私、寂しいのは嫌だから。」 決して上から目線の支援ではなく、等身大の地域住民として支え合いのきっかけを作りたいという運営者としての考えがストレートに伝わってくる大変にシンプルなものでした。 話は戻って豪雨災害発生後の2、3か月は矢野の家も活動を休止さざるを得ず、スタッフの方々は、近くの公園に設置された災害ボランティアセンターで、全国から集まってくるボランティア志願者のお世話に従事されるという日々が続きました。 その時、直接被災された方々に必要だったのは、まずは生活の基盤である住居を埋め尽くした土砂を撤去することでしたので、地域のためにやるべきこと、やれることを最優先してそのような選択をされたのだと思います。 災害ボランティアが一段落すると、矢野の家の活動も再開されました。災害発生前後で何も変わることはなく、こども食堂も月2回の定期開催です。 ある県外のテレビ局から「豪雨災害の被災地におけるこども食堂を取材したいので紹介してほしい」との電話依頼を受けたのは、半年ほど経った頃だったでしょうか。 こども食堂による被災者の支援が取材のテーマとおっしゃるので、あまりそのような趣旨のものは歓迎されないだろうなとは思いつつ、運営者の方に意向を確認すると、案の定、「私たちの活動は災害とは関係ない。被災した人が参加者の中にいたとしても、それは結果的なこと。被災してかわいそうな人たちといった目で見られたくありません。」というお答えでした。 テレビ局にご意向をお伝えしたところ、とても残念そうではありましたが、丁重にお断りをしたこのエピソードは、被災地支援を看板に資金や物資を集めようとするような姿勢とは対極にあり、当センターとしても大変に誇らしく感じたのでした。 矢野の家の活動は現在休止中ですけれども、そこでできた縁は矢野という地域で途切れることなく続いています。 充電期間を経て再出発の日が訪れることを楽しみにしている次第です。

6 かしの木こども食堂 お待たせしました。 続いて歴史とものづくりのまち、呉についてです。 呉の草分けは、社会福祉法人かしの木さんが運営する「カフェときどきこども食堂」であり、これはかなり明確な答えです。 というのも、2017年1月にスタートしてから2019年4月に「やすうらみんなのひろば」ができるまで、2年以上にわたり呉市内唯一のこども食堂でしたから。 会場の「かしの木内神」は、障害のある方たちのグループホームと児童発達支援の事業所であり、併設するカフェを使って火曜と木曜の週2回の夕方開催、月2回水曜日に朝ごはんを提供されていました。(オープン当時) このような高頻度での開催は、社会福祉法人としての取組であるがゆえのもので、ボランティアベースの活動では難しいと言えます。 見学に伺った時にお聞きしたのは、施設に対する地域の理解を得ることも大きな目的とのことでした。 その時も、こども食堂に来ていた子どもが、友達のお父さんが施設の職員さんで、グループホームの方を引率しているのを見つけると「〇〇くんのお父さん!」と嬉しそうに声をかける姿が見られ、こども食堂の存在が施設と地域の接点になっていると感じました。 高齢者福祉や障害者福祉といった社会福祉施設を会場とする食堂は、初期から存在していて、広島では西区のキリスト教社会館「こむぎ食堂」や社会福法人交響「らくらく広場」、福山では社会福祉法人さんようの「なかよしキッチン」などがそれぞれの地域で草分け的な存在となっています。

7 さとの会 直近の統計で東広島市の人口が呉市を抜いて県内第3位になったとか。その東広島におけるこども食堂の広がりについて振り返えってみます。 東広島市という行政区の中で最初に活動を始められたのは、安芸津町の「こども食堂ハーモニー」です。元養護教諭の方が退職後に地域の子どもたちの居場所を作るために2018年7月にスタートし、現在も月2回の活動を継続されています。 しかし、安芸津は 東広島市の中心部からはかなり遠く、ハーモニーの活動は孤高の存在とも言えました。
